subconscious 潜在意識まとめ

潜在意識、引き寄せの法則、セドナメソッド、108、ザ・チケット、マネーゲームなど

自己観察さん抜粋

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「俺既にそれ持ってたの?どこによ?」
と探し始めた時点で、既に所有していないことを認めております。
故に所有していない現実が現れるということです。
所有しているかしていないかどちらに意識を向けるかの違いです。

 

今この瞬間、自分が愛や充足として存在したいのか、不安な思考と一緒にいたいのか。
在りたい自分であること。それだけです。それしかないです。
不安を感じても、「その思考は自分ではない」という自分でいられれば
自然と不安は消えていって愛を選択できます。
それでも不安に飲みこまれそうなときは、不安を感じつくす、自愛、リリースなどで解放してあげる。
その根拠となる部分をいろいろと説明を試みてますが、結局のところはこれがすべてだと思っています。

 

別の領域を意識的に選択している時点で、意識的に許可してることになると思います。

 

「別の領域を信頼するしかない」ということになっています。
なので「既にある」が理屈でわかっても認識が変わるわけではありません。
「認識が変更した人」の言葉はあまりにも謎めいて聞こえるのでw
そこで翻弄されているとある意味がっかりする内容かもしれません。

別の領域では「無でありすべて」と書きました。
「ない」と同時に「ある」が矛盾なく存在します。
すべての潜在的可能性が、生じることも滅することもなく遍在しています。
「欲しい(ない)」と思ったと同時に「ある」ので「願望=実現」です。

そしてこの現象の世界では「ない」と「ある」は対立します。
わかりにくい説明ですが、

まずひとつの点が存在する(ないと同時にある)

その点を引き伸ばして一本の線が出来たとき、「ない」と「ある」の相対する極が生まれた
「ない」と同時に「ある」が成立しないので、二極を結ぶ線のプロセス(「ない」→「ある」)になります。
「ある」を体験するには、「ない」と認定することで「手に入れる」プロセスを経る必要があります。
ということは「ある」ことが前提でないと、「ない」という認定自体が出来ないことになります。

私たちが現状を見て「ない」と思うのは、「ある」が真実だからその真実を否定している「ない」を認識出来るのであって、本当に存在しないものは、「ない」という自覚すら出来ないのです。

現実世界は、別の領域での自分の内部表現が、肉体を通して目の前にそのまま投影されて展開されているのですが、遍在する可能性の中から欲しいものや状況を形作ったとき、(こういうものが欲しいと思ったとき)目の前の空間にそれは実際にあるはずなのです。

 

何かを欲したとき例えば「優しくて2~3歳上のイケメン彼氏が欲しい」みたいな、実際には存在を確認できていないものを欲する場合と、既に存在はするけれど他人の所有物だったり、お店で売ってはいるけれど金額的に手に入れるのが難しいと感じるものだったり、供給数が少なすぎて手に入れることが困難なように思えるものだったり・・・といろんなケースがあると思います。

これを「ないと同時にある」という話からすると、どんな願望であれ「欲しい」という意識が私の中で生まれたとき、既にそれらは実現されている(願望も実現も投影されている)ということです。

実際に優しくて2~3歳上のイケメン彼氏と付き合ってるし、
欲しいと思った物や人、状況はすべて自分のものになっています。

それらの場合の「まだ現れていない」「他人の所有物だ」「お金がないので手に入れられない」「数が少ないので手に入れるのは困難」などの、それが実現していないように見える理由はすべて、「既にある」ものを「ない」と認定するために幻想を見ているだけということになります。

チケット7章でのパンの話を思い出して欲しいんですが、
既に自分のパンとして目の前にあるのに、「自分のものではない」と認定して
「手に入れる」ために何かをしなくてはいけないと思い込んで現実を見ているので、
「他人のもの」「手に入れるのが困難」な現象として目の前に展開しているのです。

ではこの「ない」という認定をどうすればいいのかということになるんですが、
この現象世界ではこの「既にある」が瞬時に自分のものとして起こることは通常ほとんどありません。

この現実世界で生きるための基本ルールとして選んでるフィルターがあります。
肉体があって椅子に座って机やキーボードを触れたり画面の文字が読めているのも、
そういった地球的な物理法則を採用しているから出来ることですが、
実際にはただの電気信号をそのように脳で処理しているだけのことです。

このフィルターは自己防衛本能に大きくかかわっているので、「既にある」が「ない」ようにしか見えないのは当然のことです。

例えば「ケーキが食べたい」と思った瞬間、空間からケーキが出現したり、見知らぬ人からプレゼントされたりしたとして、すんなり受け取ることは難しいと思うし、出所不明なケーキを口に入れるのも勇気がいると思います。

ちょっと思いついただけのことが時系列を無視してすぐに実現すると、人間として生きるうえでかなり支障があると思います。

なので欲しいものが出現したときに、空中から突然物質化するのを目撃することは殆どないと思います。
たいていは時間や所有という概念を使って、観念が受け入れやすい自然な形で現れます。

「自分のものではなかったが手にはいった」とか「いつの間にか自分のものになっていた」という形です。

 

「既にある」を実感できるようになると、「自分のものではない」として見えてる現実が、本当は自分のものであるけれど、現実という2元世界での便宜上他人のものなり
入手困難なものとして現れてるだけだということがわかっているので、
渇望するということが出来なくなります。

当然ですが、他人のものを勝手に自分のものだと思い込んで満足しているだけだとしたら、思い込みの激しいイタイ人なだけですw

そうではなく、実際に客観的事実として自分のものになるということです。

ただ、自分のものになるまでに、2元世界の性質上必要なプロセスがあるけれど、放っておけば自分のものとしてやってくるのが当たり前なので、何もする必要がないことがわかっているのです。

私たちは今まで、この現象世界しか認識できていなかったので、「便宜上、自分のものではない状況」として現れているだけなのに、その現象を、固定された状況で変えることは難しい事実だというように捉えてしまっていて、「ない」ということがものすごく苦しく感じるし、手に入れるためにいろんなことをしなければならないと思い込んでいます。

そして手に入れようと試行錯誤することで余計に事態をややこしくしてるだけなのです。

認識が変更されると、同じ現象を見ても違うように見えるというのはこういうことです。
「他人のもの」として見える現実が、ただの途中経過に過ぎないと見えるか、
他人から何とかして自分のものにするために何かをしなくてはいけないように見えるかの違いです。

そういう意味で、起きている現実に対してどう捉えるかがこの先に起こることを変えていくというのは本当のことです。ただそれは、ポジティブに捉えていれば叶わなくても満足できるでしょ的な精神論ではありません。

それで心底安心して満足できるならいいのですが、そうでない場合は蓋になることもあります。
なので、別の領域に浸って信頼を高めることで認識を変えたほうが楽だし、間違いにくいと思いました。

別の領域が主体のとき、わざわざポジティブを心がけて思考の調整をしなくても、そのようにしか思えないということです。

「既にある」がわかるまで「既にある」を適用できないという観念を持ってる方が多いと思うんですが、
ある事にこだわりすぎるとないという否定が強くなってしまうので、わからないけど既にあるを適用してみよう、既にあるとして世の中を見てみよう。

こう思うことで理解しようとする思考のループを切ることができます。
ですので、私の話はそんなものか~・・くらいでいいので、自分自身の別の領域を信頼してみてください。

 

私の感覚では、「旅行いいな~~♪」と旅行行くときのワクワク感と一体になったら、
それはもう私のもの、というか私がワクワクそのものなので、旅行にかかる料金その他は後付けってか、世界が「もう辻褄合わせるしかない」って勝手に整えてくれるって感じ。

辻褄あわせっていうのは、例えば泥団子できれいな球体を作ろうとしたのに歪な形になってしまった。
そんなときあちこち修正しようとするより、一度ぐしゃっと潰して再構築するみたいに
この世界も毎瞬再構築、再更新され続けているので「今」と同じ構成要素の世界は二度とない。
お財布の中、通帳残高も再構築されてるから一秒前と繋がってない。

繋げてるのは主に直線的な時間の観念。
それと自我はどうしても無意識にパターンに嵌ってしまうから、給料というありがちなパターンから逃れにくいんだと思う。

それを解除するアプローチよりも、具体的な事象があればそれもいいけど、
単純に「幸せで人生楽しいな~」な情熱とか穏やかさとか、自分への愛とか
そんな感覚と一つになってしまえば、あとはあなたの観念だとか、世界の形?映像とか、そんなものは後付けで変わっていくよ。

特に最初のうちは、意識的に自覚するのがコツかな。
「一つになってる」「今に在る」とか。
自覚がそれを活性化してくれるから。

 
一つになるとかいわれても感覚的に掴めない、自覚できないから「できてない」ってなるよね。
まあ実際は「一つになる」んじゃなくて元々一つなんだから再認識だけど。

「世界と自分が一つだってことを知ってたらどんな感じかな」
って自分に問いかけたとき、返ってきた感覚がそれだよ。

なんとなーく、な感じをもっと信頼するというか、そういう微細な感覚に気づくことによって、
あなたの中の「既にある」が活性化されて、すこしずつ輪郭を現してくると思うよ。

 
先にアウトライン、設計図を作る感じかな。
決めるのはあなた。あなたの意図が設計図。
あとはエネルギーが勝手に動いたり構成を変えたりしながら勝手に完成してくれる。
だから意図があやふやだとうまく完成しないんだよね。

そしてお金なんて後付けの最たるもので、通帳の数字だけ見てこのくらいあれば安心とか、今月はこのくらい入ってるはずとか。
あれを手に入れるにはいくらくらいかかるとかやってるよね。

意図がない、またはあやふやだからうまくエネルギーが作用してくれないの。
だから「現実がどうあれ私は幸せだ!」と意図すれば、
それって「見えてる現実に左右されないよー。」っていう表明でもある。
そのとおりに世界が映し出されてくる。


基本的には、気づくだけ、後は何もしない。ただそこにいるだけ。
何もしないことに不安やいろんな心の動きが出てきても、それに気づくだけ。
「これはどう対処したらいいだろう」と思ったなら、それに同化せず気づくだけ。
それを繰り返していくと「安心」「解放感」人によっては「空白」「無」かもしれませんが、そういう感じになるかもしれません。(あくまで一例。人それぞれ。)


あとは安心、リラックス、自然、楽、そういうスペースに積極的にいること。
というかたいてい不自然に緊張してるので、それを緩める、脱力ってことです。
安心のスペースが定まってくると、気づく精度が違ってくると思います。(無駄な動きがなくなるような


エゴで何かを感じたことがそのまま反映されるわけではないよ。
だって、不安な気持ちでいいことあったり、うれしいもちでも嫌なことも起こるから。
エゴには何にも叶える力はない。ただの外に対する反応だから。
でも、本来の自分(別の領域)がエゴの見解を採用するとない正解が展開される。
別の領域では、本来すべてがある(思い通り)正解なのに、エゴの見解を採用
することで、ない世界(思い通りにならない世界)が展開される。
じゃあエゴの見解を採用するしないって何かと言えば、自分がどう認識しているか。
達人さんがよく言う、「エゴが騒いでも私は持ってるのがわかるから気になりません」
ってこういう感じが、エゴの見解を採用していないってこと。エゴと一緒になって、ないからあれこれやって獲得しなきゃと思っているなら、それはエゴの見解を採用している。
だから、エゴに叶える力なんかない。すべて自分で選択してそれをかなえているだけ。
すべてが既にここに在るのだから「私はそれを見る!」というのが意図です。
あるものを見るだけだから、これだけで充分なんですよ。
「現実が変わるまで惨めと感じてる自分の内面は変われない」と、現実が先に変わるのを待っても無理ですね。
現実世界はあなたの心の投影なので、内面が先に変わらないと現実が変わるわけないですよね。
「自分をOKと思う」ことは必要ないです。
上に書いたように、「自分をOKと思えない自分がいるんだな」というのを認めればいいだけで、そのこと自体に良い・悪いという判断を下す必要はないです。
自己観察なんて「思考があることに気づく→思考から離れる」ただこれだけ
「幸せそのもの」に目を向けてください。
それを見ると決めるだけです。
それ以降の、不安を訴えてくる思考にいちいちかまう必要はありません。
「劣等感がなくなる」より一歩先にいる「幸せな自分」に焦点が当たる質問がいいですよ。
もっと簡単に幸せになっていいんだ~と、その感覚を味わってみてください。
「私が安心して心地よく過ごせる私だったら、それはどんな私かな~?」
と問いかけて呼び出すというか、そのまま全体に委ねちゃうといいと思います。シンプルに。
そのときもう「そういうあなた」になってるから。
嫌なことが起きても、それは現れて消え去るものでしかありません。
それを起点にしてなにかを「叶えよう」とするのではなく、
「たった今どう在るか」の在りかたでしかないのです。
わかろうとするのではなく、わかろうとしてる自分、なにかに到達しようとしてる自分に気づくことなのです。

 

「相手が気を悪くするかも」じゃなくて、思考に同化してることについて気づくんですよ。

 

「腑に落ちる」必要さえなかったんだ!と腑に落ちるかもしれません。
言葉遊びみたいですけど、「求めてるもの」が本当はいらなかったんだ、ということなんですね。
だから何かを求めてる思考に気づいたら、「それはどうでもいいものだ」と思考を掴まずに、無とか心地よさのほうに意識を向けるといいと思います。

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